2011年03月11日地震後,仙台市青葉区中山での生活覚書



2022年,だんだん記憶が薄れてきているので,少し追記しました.

11日:
私は当時ポスドク1年目であり,4月から北大でポスドクをやるために引っ越しの準備を進めていた時期だった.地震の数日前から阪大のSさんが来ていて,合同棟9Fの実験室で一緒に真空ラインで実験をしていた.地震が発生したのは,私がたまたま廊下にいるときだった.揺れが次第に大きくなり,今まで経験したことのない激しさとなった.私は壁に背中を強打した.Sさんは実験中で,ガッチャンガッチャンと装置類が落下・破壊されている真っただ中で耐えていた.揺れがおさまると,私は実験室に飛び込み,彼の無事を確認し,シューッと漏れ出していた窒素ボンベを手早く閉じ(2次側の管が引きちぎられていた)一緒に脱出した.すべての防火扉は閉じられ,建物内は異様に暗く,やけにシーンとしていた.壁のスピーカは外れ,ケーブルだけでブラブラと垂れ下がっていた.そんな中,みんな無言で足早に階段を降りた.我々は地学棟前の集合場所に向かった.

夕方,解散になると,同じ方面のK村さんと一緒に早歩きで帰宅した.町中は停電し,電灯・信号機はすべて停止.道は大渋滞,交差点はパニック状態である.道路は破壊され,アスファルトは多くの箇所で割れていた.青葉山の地面にも地割れが多数発生.そんな中を犬の散歩をしている人がいて驚いた.

帰宅すると家の中はめちゃくちゃ,足の踏み場はなかった.食器は流しの上の開きから落下し,多数壊れていたが,暗すぎてよく確認できなかった.机の上で醤油が倒れていた.液は机の縁ギリギリで表面張力で止まっていた.懐中電灯をやっと見つけ出したものの,なぜかこの日,バラバラに壊れた.ガスは出なかったが,水道は使用可能.これに安心し,風呂に水を溜めるのを怠った.隣のお宅からは水をためている音が聞こえていたのに,私は何の危機感も持たなかったのである.

ウジエスーパーの店頭の行列に並んだ.普段よりずっと安値で販売してくれていた.「お客さんは損しません,損するのは私たちです」と店長が言っていたのが印象に残った.パンは売り切れ.ハムやバウムクーヘンなどを買った.1000円札を1枚多く出してしまったように思うが,確認する余裕はなかった.暗闇の部屋に戻り食べた.明日には普段どおりの生活に戻れることに何の疑いも抱かず寝た.携帯電話は合同棟9Fに忘れてきた.


12日:
寝坊で10時過ぎに起きた.水道が出ない!!事の重大さに気が付き,真っ青になった.水を手に入れなければ!中山イオンで2時間並んだ.列は店舗の南側(マックがある側)から始まり,ジャスコの建物をぐるりと囲ってメインの駐車場に入り,北側出入り口付近の屋外で商品を買えるようになっていた.ひとり20品まで購入可能.水とお菓子を購入.イオンで買ったものを食べたのち,体力温存のため布団で横になり,ラジオ(ヲークマン)を聞いていた.原発が事故を起こしたことをラジオで知った.チェルノブイリ チョルノービリのことを思い出した.このとき,唯一の情報源は携帯ラジオ(ヲークマン)であったが,充電できないので節約.

夜,情報を入手しに中山中学校体育館に行った.体育館の中央部には避難してきた人がたくさんいた.壁側にはパイプいすがずらりと並んでおり,ラジカセに一番近い席に着席,ラジオに耳を傾けた.避難してきたひとを眺めていた.みんな布団の中でねっころがっていた.子供たちはトランプを.首相の話の時,ラジカセの音量を大きくすると静粛になり,みんな注意深く話を聴いていた.暗闇の帰り道,交番の裏に沼があったことをふと思い出した.


13日:
朝,水を汲みに沼に向かった.そんな小さなバケツでは大変だと,近所の人が大きなバケツを貸してくれた.沼にはすでに何人かいた.せっかく風呂に水を溜めたのに洗濯に使っちゃった,という人(主婦)の話を聞いた.電気もないのに?どうやって洗濯したんだろう(たらいか?なんてことを考える余裕はなかった).水汲みを手伝った.すれちがう人が声を掛けてくれた.水汲み場情報などの情報を交換した.「頑張ろう!」「ええ頑張りましょう!」などと励ましあった.

信号機が完全停止していても,車は普段と同じくらいたくさん走っていた.信号機が停止した大きな交差点でどうやって車同士のコミュニケーション取っていたか,詳しく観察する余裕はなかった.どちらかの流れが途切れると,それに垂直な流れが開始する,という状態だったような気がする.

お昼ごろ,イオンで5時間並んだ.後ろの列の人と会話しながら.キャンプ用の折りたたみ椅子を持参している人もいた.しかし,途中,倒れ担架で運ばれる人が・・・みんな黙祷のような視線を送っていた.売り場ではひとり10品まで購入できた.

午後,(後日だったかもしれない)バケツを貸してくれた御宅にジャスコで買った500mlの水ボトルを1本持っていった.却ってわるいことをしてしまって・・・とおっしゃていた.なお沼の水は緑色で,飲用には不向きである.


その後,電話するため中山から降りた.国見の薬局前の公衆電話の列に並んだ.非常事態の爲,公衆電話は10円が戻ってくる仕組みになっていた(※).電話の脇に誰かが10円玉を置いておいてくれて,それを使い,終わったら脇に置けばよいのである(前日夜にも中山の七十七銀行前公衆電話ボックスから電話したような気がする・・・ということはこれは2回目だったか).そのまま仙台の中心街に出てみた.西公園近くで,缶ジュースを飲んでいる人を発見(驚いた).話しかけ,大橋近くに営業中の自販機があるとの情報をもらった.スプライトを買いにいった.一番町で,営業しているコンビニを発見(南町通りのミニストップ).しかし店内はすっからかん.ガムとアイスを買った.141近くで水道水を飲ませてくれるコーナーがあり,ごちそうになった.帰り道,大学病院前のマンションの駐車場で,ホースからあふれる水を,湯水のごとく,ばら撒いている人をみかけた.ちょうどそのとき通行人がおり,地面に撒くくらいならわたしたちにくれればいいのに,とぼやいていた.

夜,また中山中学校に行った.パイプいすに着席.隣の人と会話し,家の悲惨な状況やトイレの衛生について話を聞いた後,宗教の勧誘をされた.


※あとで調べたら,緊急事態では10円さえ必要ないらしい.あのときも10円を入れる操作をしなくても良かったのかもしれない.


14日:
午前,中山イオンで3時間並んだ.ひとり8品まで.列の作り方がこれまでとは異なり,北側のメイン駐車場の中で環状線に沿う方向に並んでいた.この日から,家から1.2キロ離れた貝が森公園の水道の行列に並びはじめた.40分待って衣装ケースに水を汲み,自転車で運んだ.水で体を洗った.夜,電気が復旧!中学校に通うのをやめた.
あれほどたくさんの人が,普段はほとんど見向きもしないこの公園の水飲み場に行列を作るのは前代未聞のことである.

実はこの公園に行く前,貝ヶ森の谷底に向かう坂の途中の公園にも行った.ここでは数名が並んでいたが,すでに水がほとんど出ず,みんな残念そうな顔で解散した.夕方の寂しい時間帯のことだった.



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その後は,毎日衣装ケースに水を汲みにいき,汲んできた水を電気ケトルでお湯にして体を洗う生活.ケトルで沸かし,ケースに戻し,また沸かし・・・を40分くらい繰り返すと,体にかけても震えない程度のお湯になるのである.初めてのときは,これをやらずに水をそのまま身体に掛けた(その日は晴れていて,暖かいように感じたから).しかし水はあまりに冷たくて,耐えられなかった.

途中から,中山市民センターに給水車が来るようになった.給水が大幅に楽になった.2つの衣装ケースのうち1つが壊れた.イオンはしばらくの間,一人8品.後半,荒巻のヨークでは一人15品.オカザキスーパーは早期から他のスーパーより品揃えよかった.町と人が少しずつ元気になっていく.品物が手に入りやすくなると,声を掛け合うことも少なくなった.
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25日:
この日はカテキヨのK原さんが晩御飯に呼んでくれて,自転車でお邪魔した.午後,水を汲みに行く途中で三女のSさんがメールをくれたのだった.カレーがおいしかった.実はこれ以前にもたびたび,というか毎回晩ごはんをごちそうになっており,中でもカレーは特別においしかった.K原さんのところでは他にもいろいろな料理をごちそうになり,たしかホヤを初めて食べたのはK原さんのところだった.なつかしい・・・.こんなこともあった.21時に勉強を終わった後,3人(長女のYさんと長男のK君と私だったような)で300回じゃんけんを繰り返し毎回記録をとったら,勝つ確率がほぼ1/3だった.

それでこの日はご飯を待っている間,K君が手回し発電LEDライトを私の方へ向けてふざけたりしていた.談笑していると夜になったのでお暇した.

帰宅したら水道から水が出るようになっていた!!

近所のガソリンスタンドの翌日営業情報を,早期のうちに偶然入手した.給油は200台限定!大急ぎでGSに向かった(夜).国見が丘の住宅地を取り巻くように,すでに行列ができていた.81台目に並ばせてエンジン停止,車を置いて帰宅.こんなことしていいのか.
給油情報をどうやって入手したか思い出すことができない.河○邸の帰り道に見たのか,それともネットで知ったのか(このころ,ネットで給油情報を探していたのは覚えている)
・・・いろいろ考えると,たぶん河○邸からの帰り際に,国見ケ丘の車列を偶然見かけたのではないか?それで,ちょっと状況を調べて,大急ぎで帰宅して,車を持っていったのだろう.もし,事前に情報を知っていたら,河○邸に行く心の余裕はなかっただろうし(地震の前から燃料警告灯が点灯していた),河○邸ではガソリンのことなど考えずにゆっくりと談笑して過ごしたのだし.

水道復旧後,坂の下のアパートの2階から大量の水があふれていた.水道を開けっぱなしのまま避難してしまったのかもしれない.


26日:
朝,車のところに戻った.長蛇の列が近所迷惑になっていると苦言を呈されつつ,整理券をもらった.10時台に出直すよう言われた.10時30分,満タン給油に成功.カードで支払うひとしか満タン給油をさせてもえなかった.現金払いの人には制限していた.


30日:
午前,引越し業者が来た.これは一度キャンセルになっていたものの,ヤマトが頑張ってサービスを再開してくれたものであった.午後,西花苑の震災ごみ置き場に行った.野球場全体が巨大なゴミ山になっており,指示に従い,所定の場所で車から下ろした.


31日:
仙台を離れ,秋田に向かった.秋田のコンビニも品不足.秋田の東横インに宿泊.久しぶりに温かいお湯に浸かった.このお湯の気持ちよさはいまでも覚えている.この日の晩には飲み屋さんで晩御飯を食べた(酒も飲まずに).たしか肉豆腐をたべたような??美味しかった.女将が優しい人だった.次回使える割引券を今(2022年)でも持っており,また行きたい.


4月1日:
早朝,秋田港で乗船.夕方,苫小牧東港に上陸.札幌に移動,夜,東区の新居に入る.何もかもが揃った栄町のイオンで食糧を買った.



この間,貴重だったもの
・魚肉ソーセージ 一日一本だけ食べてよいことにしていた.常に一本バッグに入れて行動した.
・サランラップ カレーを食べるとき,サランラップを皿に敷けば洗わなくて済む.
・水を汲む時,バケツにゴミ袋を内張しておく.水を入れた後,上部を縛れば水がこぼれず,持ち運びが楽.ビニールがないと,揺れのため帰宅までに3割~5割は失われた.
・伸び縮みする水タンクがうらやましかった.
・ヘルメットは,頭を物理的に守るというよりも,建物に入るときの通行許可証として役立った.10年以上経ったいまでもヘルメットは車に載せている.



そのほか
・原発が事故を起こしたことを知ったのは,布団の中でラジオを聞いていた時だった.福島の人が避難することになったことを知り,仙台ももうだめかと思った.助からないかもしれないと思った.日本は東北地方を放棄することになるのかと思った(チェルノブイリ チョルノービリのイメージが強かった).自転車で国道4号で関東に脱出することを考えたが,食糧はなく,気温も低く危険なので思い直した.

・地震の直後は,利府イオンの天井が・・・とか,荒浜海岸でxxxといったような,具体的な地名の出てくるニュースが多かった.やがて震災があまりに甚大なることが知られるようになると,そういうニュースは流れなくなった.荒浜の話は特に衝撃が大きかったので,その後も時々会話の中にでた(そういう会話の中で,荒浜で時を過ごすのが好きな人が実は結構たくさんいたのだと知った)

・沿岸地域に津波が来たこと,日本全体が被害を蒙ったことなどは,初めのころは分からなかった.

・東北大学で日ごろから行われていた避難訓練は大いに役立った.みんないつもの訓練と同じように整然と階段を降り,それぞれの集合場所に向かったのである.この訓練は他大学もやったほうがよいのではないか?

・地震の時,屋外にいた人の証言によると,合同棟の建物が波打っていたらしい.

・震災の時,さまざまに珍しい光景を目にしたが,カメラで撮ろうとは思わなかった.そういう気持ちにならなかった.(どんな光景だったか,2022年現在ではもう思い出せなくなってしまった)

・Wなべ夫妻がたびたびディナーに招待してくれた.Wなべさんは料理が上手で,またいろいろな話ができて楽しかった.たしか,W辺さん宅はプロパンガス使用の物件となっており,震災後もすぐに料理をすることができたのだった.また,Wさんは私の引っ越し手伝いもしてくださり,大学に積んである私の大量の荷物をWさんの車で私の住居まで運んでくれたのだった.

・N村先生が一度食糧を送ってくださった.電話でお話し,原発事故で仙台はこの後どうなっちゃんでしょうと相談したことがあった.

・ずっとあとになって聞いた話だが,仙台空港近くに家を建てた人がいて,ちょうど3月11日が鍵の受け渡し日で,入居したその日のうちに津波が来たという.

・夜,中山から仙台の街を見おろすと,今日はどこまで電気が来たのかが分かる(中山は高台になっている).仙台の中心地から外側に向かって,明るい地域が徐々に広がってくる.文明がやってくるような,待ち遠しいような,憧れのような気持ちだった.

・その一方で,月明かりを頼りに暗闇を歩くことが神秘的で,原始的で,どこか懐かしいような,そしてこのまま続いてほしいような気持ちにもなった.また,月があれほど心強いものだとは殆ど考えたことがなかった.

・中山ジャスコで3日目に買い物列に並んでいるとき,後方の少年グループからこんな話が聞こえてきた.地震が発生したとき,ちょうど床屋でシャンプーしてもらっているひとがいて,地震に驚いて頭泡だらけのまま,体にはシャンプーのときに使用する布をつけたまま店舗の外に飛び出してきたのを目撃したと.なるほど,と思ってしまった.ゲラゲラ笑いながら話していた.

・私の居住地では水道復旧に2週間かかった.これは近隣の他地域に較べ非常に遅く,貝ヶ森も,吉成も,中山の他のX丁目でもとっくに水は来ているのに,わたしのところ一角(4丁目だけ?)には来ず,じれったく思っていた.どうやら,このあたりでは番地が僅かに異なるだけで,水道の供給経路は大きく異なるらしい.誰かに質問し,教えてもらった気がする(給水所の人だったか?).

・都市ガスの復旧はついに見ぬまま,札幌に引っ越ししてしまった.




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